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東京高等裁判所 昭和60年(う)906号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人稲川龍雄、同石塚文彦、同岡田泰亮、同助川裕、同森谷和馬連名提出の控訴趣意書及び同補充書に、これに対する答弁は検察官須田滋郎、同氏家弘美連名提出の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一法令適用の誤り及び事実誤認(訴訟手続の法令違反を含む。)の主張について

その論旨は、要するに、(一)過失における注意義務の根拠としての被告人の有限会社川治プリンスホテル(以下、「川治プリンスホテル」、又は単に「同ホテル」という。)における防火業務の管理運営に関する職務権限、同ホテルの火災による宿泊客及び従業員の死傷の結果発生の危険に対する予見可能性並びに注意義務の認定、(二)被告人の過失とされる消防計画・避難誘導訓練の未実施並びに防火戸・防火区画の未設置と宿泊客及び従業員の死傷の結果発生との各因果関係の認定、(三)消防計画・避難誘導訓練の実施及び防火戸・防火区画の設置が宿泊客及び従業員の死傷の結果発生を回避することの有効性及びその予見可能性の認定、(四)消火栓の不備と宿泊客及び従業員の死傷の結果発生との因果関係の認定、更には、(五)過失(注意義務の懈怠)の認定について、原判決は、証拠の評価を誤り(証拠能力に関する訴訟手続の法令に違反し)、事実を誤認し、過失における注意義務の構成並びに注意義務及び因果関係の個数に関して法令の解釈適用を誤つている、というのである。

そこで、所論に即して逐次原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも併せ検討することとする。

一職務権限、予見可能性及び注意義務(結果回避義務)について(論旨(一))

(一)  原判決の認定する被告人の業務性及び過失の注意義務の骨子は、次のとおりである。

① 被告人は、夫小黒太平(以下、「太平」という。)が代表取締役をしていた川治プリンスホテルの取締役として、太平と共同して同ホテルの経営管理業務を統轄掌理してきたものである。

② 川治プリンスホテルは本件火災当時、鉄骨木造亜鉛メッキ鋼板葺一部陸屋根五階建(客室は四階まで)の通称旧館と、木造一部鉄骨亜鉛メッキ鋼板葺一部瓦葺新館二階建の通称新館とが接着し、新、旧館一階及び二階の各中央部が連絡通路によつて結ばれた構造となつているところの、宿泊収容人員数約二五〇名、従業員数約三〇名の規模の旅館で、このような構造、配置のため、木造建築物である新館から火災が発生した場合、火の回りが早く、旧館二階との連絡通路を経て火災が拡大し、同館内の多数の宿泊客及び従業員らの生命、身体に危険が及ぶ恐れが極めて大きい状況にあつた。

③ 従つて、同ホテルの経営管理業務に携わる被告人及び太平には、その業務の一環として、かかる事態を未然に防止するために、火災が発生した場合に備えて、(イ)右宿泊客らを安全確実に避難させるよう、あらかじめ火災報知ベル作動時における火災発生の有無、出火場所及びその状況の確認、宿泊客への通報及び避難誘導等の担当者、手順等に関する計画を作成し、これに基づき避難訓練を実施してこれを従業員間に周知徹底させておくべき(以下、「消防計画、避難誘導訓練の実施」という。)、また、(ロ)火災の拡大を極力防止しうるよう建築、消防関係法令に従い右連絡通路部分に煙感知器連動式の甲種防火戸を設置し、かつ、旧館二階ないし四階の中央及び西側各階段部分を防火区画とする等の措置を講じておくべき(以下、「防火戸、防火区画の設置」という。)、業務上の注意義務がある。

(二)  被告人の職務権限

所論は、原判決は、被告人が川治プリンスホテルの取締役専務として同ホテルの経営管理業務を統轄掌理する権限を有し、その一環として防火管理の業務に従事していたことを、火災による宿泊客あるいは従業員の身体、生命に及ぶ危険の防止の義務を負う根拠としているが、同ホテルの防火防災業務を含めた管理運営の職務権限は被告人にはなく、すべて同ホテルの店長(ないし支配人)であつた原口将臣に委ねられていたものであり、同人が実質的な防火管理者の地位にあつて、その職務に従事していたものである、というのである。

そこで検討するに、原判決挙示の関係証拠によると、以下の事実を認めることができる。

① 川治プリンスホテルが営業を開始した当初は、太平は、代表取締役社長として同ホテルの経営、管理等一切の業務を掌理統轄し、被告人は、同ホテル取締役専務として社長を補佐し、両名で同ホテルを経営していたものである。

ところが、太平及び被告人は、昭和五三年ころ株式会社交通公社トラベランド興業の勧めにより、老朽化した建物を建て直し、建築費約六億円をかけて、七階建の大規模ホテルにする計画を進め、銀行からの融資を確保したものの、太平は、投資に見合う収益が挙がるかどうかについて不安を感じ、そのころ日本交通公社に、鬼怒川における川治の将来性、川治プリンスホテルの実態解明、同ホテルを増改築して経営していく上での展望等について調査を依頼したところ、昭和五四年になつて、日本交通公社から、川治温泉地区におけるホテル経営の先行きが暗いとの調査結果の回答があり、しかも、そのころ、同地区は国立公園内にあることから、建築物の高さ制限により七階建の建物を建てることはできないことが判明するに及んで、右計画を断念せざるを得なくなり、以来、太平は、同ホテルを売却してホテル営業をやめることも考えるなど、同ホテルの経営に意欲を失い、むしろ、同人が経営しているドライブイン等の経営に力を入れるようになつて行つた。

しかしながら、被告人は、同ホテルの拡大発展の希望を捨てがたく、その経営に強い意欲をみせ、太平に代つて、自然と被告人が中心となつて同ホテルの経営を行うようになつた。

② 同ホテルは、大規模ホテルの建設を断念した後、昭和五四年二月ころから同年七月ころまで、栃木の館の移築復元工事及びそれに伴なう旧木造二階建建物の東部分の引舞い工事を、同年四月末ころから玄関、フロント事務所の新築工事を、同年一二月ころから同五五年四月末ころまで旧木造二階建建物の西部分の解体と、その後への新館木造二階建建物の増改築(新築)工事を行つたが、栃木の館の移築復元工事は太平と被告人で前から予定していたとはいえ、その工事はほとんど被告人の指図の下で進められ、その他の工事は、出費に消極的になつていた太平の意向を無視して、被告人自身が計画し、資金を調達するなどして業者に発注して行わせ、太平は事後にこれを追認する状態であつた。

③ 同ホテルは、前記のとおり逐次増改築を重ね、本件火災当時は、鉄骨木造亜鉛メッキ鋼板葺一部陸屋根五階建延床面積一五三七・二二平方メートル(客室は四階まで)の通称旧館と木造一部鉄骨亜鉛メッキ鋼板葺一部瓦葺二階建延床面積一四六九・八七八平方メートルの通称新館とが接着し一、二階の各中央部が連絡通路によつて結ばれた構造となり、宿泊収容人員数約二五〇名、従業員数約三〇名の規模となつたが、

(イ) 旧館は、建築基準法二七条一項一号別表第一(二)項にいう「三階以上を旅館の用途に供する特殊建築物」であるから、同法の規定する耐火建築物にしなければならず、そのためには、二階ないし四階の中央及び西側の各階段部を耐火構造にしたうえ、防火区画を設け、外壁の開口部である旧館一階及び二階の新館との各接合部は、後記のとおり木造の新館と連絡通路で接続しているから、延焼の恐れのある同部分に煙感知器連動式甲種防火戸を設置しなければならないのに、これらの設置がなされていない。また、各階から避難階である一階に通ずる二以上の直通階段を設けなければならないのに、直通階段は中央階段の一箇所のみである。更に、旧館東側の螺旋式非常階段は、建築基準法施行令に規定する基準に達していない狭溢なものである。

(ロ) 新館は、昭和五四年から同五五年にかけて既存の旧木造二階建をほぼ解体し、その跡に建築した、同法二七条二項一号別表第一(二)項にいう「旅館の用途に供するもので、二階部分の床面積の合計が三〇〇平方メートル以上の特殊建築物」であるから、同法により耐火建築物または簡易耐火建築物としなければならない(新・旧館の開口部が連絡通路で繋つて両者一体となつた一棟の建物とみても、新館の建築については同法の規制を受け、また、別棟扱いを受けるためには、各連絡通路の旧館開口部に甲種防火戸を設置し、新館を簡易耐火構造にしなければならない。)のに、ほぼ全体が木造建築となつているところの、同法に違反した建物である(建築確認も申請されていない。)。

④ 同ホテルでは、消防法によつて要求されている防火管理者の選任届、消防計画の作成及び届出は一切行われておらず、消防計画書に基づく消火、通報及び避難の訓練等は一回も実施されていなかつた。消防施設として、ホテル各室、廊下等に取り付けてある自動火災感知器、フロント事務室に設けられた自動火災受信装置及び屋内消火栓備付けの火災報知ベルからなる自動火災報知設備一式、並びに、これと連動する甲種防火戸が玄関とホール間の廊下に設置されていた。また、消火器が各所に置かれていたが、屋内消火栓については、その設備工事がなされていたものの、放水試験ないし消防署の完工検査が行われていなかつた(本件火災当時、自動制御盤と消火栓モーターとの結線ミスにより放水できない状態で放置されたままであつた)。避難設備として、ホテル内に誘導灯が設置されていたが、その他避難梯子等の器具は皆無であつた。

⑤ 昭和五〇年九月三日藤原町消防署と栃木県土木建築課指導係が行つた川治プリンスホテルの合同防災査察で、(イ)旧館の廊下と客室との間仕切り及び階段の壁を耐火構造とすること、(ロ)当時旧館と接合していた旧木造二階建建物を簡易耐火建築物とするとともに、旧館と右木造二階建との一、二階各接合部に煙感知器連動式甲種防火戸を設置すること、(ハ)旧館の中央階段及び西側階段については、壁を耐火構造とし、廊下との接合部分に防火戸を設けて防火区画を設置すること、(ニ)旧館屋内階段を避難階(一階)に通ずる直接階段とし、旧館屋外螺旋階段を規定どおりに拡幅すること、(ホ)その他間仕切り壁の両面防火構造への改善等について指摘を受け、更に、昭和五三年一二月には藤原町消防署から同ホテル代表取締役宛、昭和五四年三月三一日までに消火栓設備を完備するよう指示書が同ホテルに郵送され、同月同ホテルの立ち入り検査が実施され、消火栓の完備に関して重ねて指示された。

昭和五四年二月ころ、同ホテルの防火責任者として当時の支配人鴫原昭三が、藤原町消防署の主催する、同年四月に消防法が改正されることに伴う既存設備の改善、設備資金の融資等に関する説明会に出席し、その内容を被告人に報告した。

被告人は、低利の防災設備工事資金を保証協会の保証で融資を受けられることを知り、太平と相談して、鴫原支配人や渡辺経理課長に命じて、消火栓等消防設備を施工することにし、同ホテル名義で同年三月三一日防災設備工事着工届を同消防署に提出するとともに、国民金融公庫から防災設備設置資金を受けた。

また、被告人は、同年二月ころ、鴫原支配人をして県土木建築課及び藤原町消防署からの前記改善事項について、通信防災サービス株式会社取締役丸山清次に相談に乗つてほしいとの依頼をし、更に、株式会社交通公社トラベランド興業の防災設備担当中村純一を同ホテルに呼んで、右丸山、鴫原のほか店長原口将臣及び大工香取久四郎らと右改善事項に関する会合を持ち協議をし、防火戸・防火区画の設置、避難経路の確保、屋内消火栓等の完備等が話題となり、いずれはやらなければならないということであつたが、具体的な結論は出なかつた。

被告人は、新館建築に際して、同建物の設計を依頼した一級建築士日野正一やトラベランド興業の中村純一から、既存建物が不適格であるから、旧館に防火区画を設けて防火戸を設置し、新、旧館一、二階連絡通路の旧館側開口部に甲種防火戸を設置し、新館を簡易耐火構造にしないと建築確認がとれないと進言されたが、結局建築確認をとらないまま新館を香取久四郎に請け負わせて建築した。

昭和五四年一二月一〇日ころ藤原町消防署の立入検査が行われ、原口将臣がこれに立ち合つたが、右検査で、防火管理者の選任届出、消防計画書の作成届出、避難訓練の実施、自動火災報知設備の完備並びに防火戸・防火区画の設置等について指摘があり、そのころ、被告人は原口将臣及び大工香取久四郎を伴い、同ホテル内を見て回り、原口将臣から右検査での指摘事項について報告を受けたが、防火戸・防火区画の設置については「お金がかかるので、そのうちやりましよう」と言つていた。

⑥ 本件火災当時、代表取締役社長である太平は、同ホテルの経営、管理全般について、これを掌理する権限を有し、対外的には同ホテルを代表する者であつたが、具体的には、同ホテルの経営の基本方針の決定、幹部社員である支配人(店長あるいはホテル部長)の採用等の人事についての決定、日計表、月計表による経営状態の把握、那須磐梯観光事業社グループの幹部会の主催等を行つていた。取締役専務である被告人は、太平と共に同ホテルの経営、管理を掌理する権限を有していたが、更に、実質的にも、常時ホテルにおいて執務し、支店長(支配人)以下の従業員を指揮監督して、日常の業務を行い、同ホテルの建物の維持管理は勿論、新築、増改築を実行し、これと関連して防火防災管理の業務も行つていた。経理面でも、被告人は、代表取締役印及び銀行印、小切手、手形用紙を保管し、経理を決済していた。

⑦ 同ホテルは、従業員の職務権限について明確な定めはないが、役員である太平及び被告人の命を受けて、従業員を指揮監督してホテル業務を総括するいわゆる支配人ないし店長が置かれていて、昭和五四年一月、原口将臣を採用するにあたつて、太平及び被告人は、原口に対し「川治プリンスホテルを全面的にお任せするから、うちのほうに来てくれないか」との申し出をしたところ、同人自身も、経理関係は疎いがその他は全部やらせてもらえるものと受け取つて、右申し出を了承したので、同人を芦の牧温泉ホテルの旅館部次長並びに川治プリンスホテルの店長という役付で採用した。しかし、実際には同人の力量が期待されたほどでなかつたところから、結局、経営、管理を掌理していた太平及び被告人の指示、命令を受けて同ホテルの日常業務を執つていたのが実情で、日常業務に伴なう出費はともかく、それ以上の出費を要する支出については被告人の承諾を得なければならず、一般従業員の採用についても、その人選は任されていたものの、給与の決定等は最終的には被告人の承諾を得なければならなかつたこと、同ホテルの増改築を行う権限はもとよりなく、防火防災の面でもその管理運営については、その都度被告人の指示を受けて処理し、同人が積極的に防火防災に関して進言したことも、そのような計画を立てたこともなく、防火管理者の資格すら有していなかつた。

右の各事実によると、被告人は、太平と共に川治プリンスホテルの経営、管理業務を統轄掌理する最高の権限を有する者であるから、同ホテルの建物を管理し、防火防災業務を掌理する地位及び権限を有し、消防法にいう防火対象物の管理について権原を有する者にもあたる。しかも、被告人は、実質的にも、直接従業員を指揮監督し、同ホテルの営業はもとより、防火防災を含めた管理業務を掌理していたのである。従つて、被告人は、自ら直接に、あるいは、店長の原口将臣その他の従業員に命じて、同ホテルに宿泊する客や従業員ら多数の者の身体、生命の安全を確保するため、建築基準法、消防法その他関係法規上は勿論、一般的にも、防火対象物たる同ホテルの建物を管理し、防火防災面で万全の対策を講ずるべき義務を負う者であると認められる。

しかして、所論の主張するところは、主として、被告人の原審公判廷における供述に依拠するのであるが、右供述は、原審証人原口将臣、同鴫原昭三、同渡辺邦夫、同佐藤常喜、同佐藤勇、同香取久四郎等の供述に反するのみならず、太平及び被告人の検察官に対する各供述調書とも矛盾し、信用性の乏しいものである。なるほど、太平及び被告人は、原口将臣を同ホテルに店長として採用した際、経理関係を除いて営業を任せる意思でそのような約束をしたことは認められるが、前記認定のとおり経営・管理業務については、被告人が常時掌理しており、支配人ないし店長の活躍する余地は少ないうえ、原口店長の力量が期待したほどでなく、むしろ、誘客業務の方を得意としていたことから、主として外部業務に従事していたもので、経営・管理上の最高責任者として従業員を指揮監督し、業務を総括し、建物等を維持管理する権限が被告人にでなく、原口将臣に与えられていたとは到底認め得ないのである。

(三)  結果発生の予見可能性及び注意義務(結果回避義務)

所論は、原判決の認定する結果発生の予見可能性は、旅館・ホテルにおける火災の一般的危険性や火災、煙等の一般的危険性に対する認識の可能性という、抽象的予見可能性ないし一般的危惧感をもつて足りるとし、また、結果回避義務についても、原判決が認定している消防計画・避難誘導訓練実施義務は、その有効性について疑問があり、結果回避可能性を一般的に有しないし、その定型性も有していないというべきであり、防火戸・防火区画設置義務については、原判決はこれによつて火炎の流入を防止するうえで有効であることを唯一の根拠としているが、防煙・防火効果を有する消防設備は防火戸に限られるものではなく、屋外消火栓でも十分その効果を期待できるのであるから、防火戸・防火区画設置義務のみを結果回避行為とするのは合理的理由を欠く、というのである。

そこで、検討すると、

1 予見可能性について

旅館・ホテルにおいては、施設を設け、そこにその施設の構造、配置、特に火災の際の避難方法やその経路に習熟しているとはいえないところの多数の客を宿泊させているのであるから、火災の発生の危険が常に存在し、かつ、一旦火災が起こればその発見の遅れ、初期消火の失敗等から本格的火災に発展し、逃げ遅れた客に死傷の危険が及ぶ恐れがあることは、旅館を経営するものが等しく予見することのできるものであり、原判決がこれを見易い道理であるとし、刑法上の注意義務の根拠としての予見可能性は右の程度の危険の認識の可能性を以て足りると解したのは、まことに正当である。かかる危険は、本件火災以前に、既に本邦において、旅館・ホテルの火災によつて多数の宿泊客等が、避難の遅れから火炎のみならず煙の蔓延により死傷した事件が多発していることからも分かるように、われわれの日常生活経験に照らして十分具体性を持つた危険であり、また、このようなことは、建築・防災の専門家でなくても旅館を経営するものは容易に予見できる事柄であつて、刑法上の注意義務の根拠として、これらの者に難きを強いるものではない。

しかも、川治プリンスホテルにおいては、旅館の建物の構造、配置は、防火、避難を困難にしているうえ、建築基準法の基準に達していないか、あるいは同法に違反した建物であり、消防法上も消火設備に不備、欠陥が認められ、加えて、不時の火災に備えての従業員等の避難訓練の無経験等から、防火に関しては極めて不備不十分な状況にあり、被告人もそのことを認識していたことが認められる。してみると、旅館・ホテル営業に直接従事している被告人としては、同ホテルに火災が発生すれば、宿泊客等の身体・生命に対し危険が及ぶ蓋然性が極めて高いことを十分予見しうる可能性があつたといわなければならない。

2 結果回避義務について

旅館・ホテル火災における宿泊客等の生命・身体に対する危険を回避する措置として期待されるものは、消防計画の作定・避難訓練の実施による有事の際の宿泊客等を適切に避難誘導すること、建物内の防火戸・防火区画の設置により火炎、火熱あるいは煙の拡大、充満を遮断すること及び火災の初期消火等がある。初期消火は、火災の抜本的な消滅を計るうえで有効であるが、初期消火が不可能な場合やこれに失敗し本格的に火災に発展した場合、危険の拡大を招く恐れがある。従つて、宿泊客等の身体・生命の安全を計る最も確実な方策は、宿泊客等を火炎、火熱あるいは煙から確実に避難させることである。そのために、火災警報装置の設置による火災発生、出火場所及び出火状況等の早期確認、宿泊客等に対する早期通報により、これらの者の適切な避難誘導の実施が有効かつ必要不可欠であり、このような適切な宿泊客等の避難誘導を実施するためには、更に、平素からその手順、役割分担等のいわゆる消防計画を定め、従業員等をして実地に訓練を施し、周知徹底させることにより、とつさの事態に際して適切な行動を執ることのできるようにしておく必要がある。と同時に、火炎、火熱あるいは煙の拡大を一時的に防止し、避難を容易かつ確実に行うことができるため防火戸・防火区画の設置が要求される。特に、原審及び当審証人神忠久の供述によれば、旅館・ホテル火災における宿泊客の安全確保については、「消火より避難」が重視される必要があることが、数多くのこの種火災の実例から明らかとなつていることが認められる。

かかる見地から、原判決は、本件において被告人に要求される具体的な結果回避義務として、(イ)消防計画・避難誘導訓練の実施、及び(ロ)防火戸・防火区画の設置を挙げ、両者の関係については、両者が相俟つて本件の結果の発生を回避し得るとしているが、後記認定のとおり、本件での具体的状況の下では、両者の注意義務が相俟つて履行されることが必要不可欠であると認められるから、原判決の結果回避義務に関する認定は正当として是認でき、また、これらの結果回避義務の内容は右に述べた程度のものであるから、十分明確性を有しているといえる。

二注意義務違反と結果発生との因果関係について(論旨(二))

(一)  原判決挙示の関係証拠によれば、被告人の注意義務違反と宿泊客及び従業員の死傷との間の因果関係について、以下の事実が認められる。

川治プリンスホテル婦人風呂南側外の旧露天風呂用地において、同時に設置されていた鉄柵のアセチレンガス切断機による切断作業に従事していた人夫星隆一の過失により、切断機の炎が右婦人風呂外壁の間隙に流入し、柱、木ずり等に着火し燃焼を始めた(午後三時一二、三分ころ火災報知器の地区表示が点灯し、主ベル、地区ベルが鳴動した。)。その火炎は、壁体内を上昇しつつ婦人風呂屋根裏に達し、同屋根裏の野地板から天井に燃え移つた(午後三時一四、五分ころ火災を覚知した。)。更に、風呂場屋根裏(小屋裏)に充満した火炎及び煙は右屋根裏に接着していた新館二階への階段の天井及び側壁を燃え抜け、フラッシュオーバー現象を起こし(午後三時二〇分前後ころ)、大量の煙が流出し、その煙が右階段部を上昇して新館二階廊下を東方に進み、新館と旧館との接合部である連絡通路を経て旧館に流入し、旧館中央階段及び西側階段を上昇して三階、四階に流入、充満し、これに続いて火炎が広がり延焼して行つた。同ホテルには、旧館中央階段出入口に防火戸の設置がなく、かつ、旧館内に防火区画が設けられていなかつたため、右のとおり多量の火炎や煙が短時間に、しかも、容易に旧館二階ないし四階の各階段、廊下、客室等に流入、充満し、加えて火災に対する適切な通報、避難誘導が全くなされなかつたため、前記風呂場及び旧館各階にいた宿泊客及び従業員は、相当数が外部に脱出することが困難となり、逃げ場を失い、多量の煙、一酸化炭素等を吸入し、あるいは、新館屋根裏等に飛び降りるのやむなきに至り、宿泊客及び従業員のうち四五名が死亡し、二二名が負傷した。

ところで、所論は、被告人の消防計画・避難訓練実施義務及び防火戸・防火区画設置義務は並列した注意義務であるところ、右各注意義務違反とこれらの者の死傷との間に因果関係が認められないと主張するので、検討する。

(二)  旧館内にいた宿泊客及び従業員の死傷との因果関係

(1) 消防計画、避難誘導訓練の未実施と結果発生との因果関係

所論は、原審証人神忠久の供述及び同人作成の「川治プリンスホテル火災時の宿泊客の避難行動」と題する論文によれば、避難誘導訓練をしておけば、火災を覚知してから、消火に走らずに直ちに避難誘導にかかつたとすると、火災覚知時から、避難不能にいたるまでの六分間で十分避難できたとするが、右供述は同証人の理想論にすぎず、消防活動の実態とおよそかけはなれたもので証明力に乏しく、また、本件捜査時に行われた避難実験結果は、通報、避難に要する時間、火災覚知、初期消火に要する時間、通報を受けた宿泊客が避難行動に移るまでの時間等に関し正当な考慮がなされていないから、右実験結果を本件に形式的に適用することは誤りであり、本件では、小屋裏火災という特殊事情のため、火災の覚知が遅れたことや、火災覚知後も、火災の規模について適確な判断をすることができずに、宿泊客を避難誘導するよりも、消火活動を優先したこと、ところが、消化栓が使用できなかつたため消化活動に思わぬ時間を要したこと、その他避難余裕時間の不足及び指揮者たる原口将臣が現場に不在であつたことなどにより宿泊客を避難させることができなかつたのであつて、避難誘導訓練を予め実施していたか否かとは関係なく結果が発生したのであるから、原判示の消防計画・避難誘導訓練の未実施と本件宿泊客らの死傷との間には因果関係は認められない、というのである。

ところで、前記認定の事実並びに原審及び当審証人神忠久の供述によれば、本件では、火災を覚知した午後三時一四、五分ころから避難誘導活動に移り、フラッシュオーバー現象が起こつた午後三時二〇分ころから煙が旧館に流入を始めて、旧館三、四階に蔓延、充満するまで一、二分を要することから、この時点で避難が不可能となること、従つて、避難可能時間は六ないし八分であることが認められる。しかして、同証人の供述及び同人作成の「川治プリンスホテル火災時の宿泊客の避難行動」と題する論文によると、旧館内で最も広くかつ昇降しやすい中央階段を利用して、一〇〇名の宿泊客が四階から三階へ、三階から二階へ、更に二階からロビーへの階段口まで行くのに約三分を要し、火事触れに二分を要したとしても、宿泊客が全部避難するのに十分余裕がある、としている。また、司法警察員作成の昭和五六年六月一〇日付及び同年七月八日付各実況見分調書、検察官作成の同年六月二四日付報告書によると、避難実験を基にして、同ホテルにおける避難所要時間を推定すると、(イ)中央階段を利用する場合、旧館各階から玄関まで避難するのに、歩行速度毎秒一メートルと比較的遅い歩速で二階に宿泊していた宿泊客及びバス乗務員ら合計八名が同階から避難するのに一分五〇秒を、三階に宿泊していた四九名が同階から避難するのに二分二〇秒を、四階に宿泊していた四六名が同階から避難するのに二分五〇秒を要することが推定される(西側階段を利用してもほぼ同程度の時間を要する。)こと、(ロ)非常(螺旋)階段を利用した場合、非常階段は屋外に設置されているから、避難者が非常階段に達すればほぼ安全とみられるところ、旧館三階の宿泊客四九名、同四階宿泊客四六名が客室を出て地上に避難するのに、三階からは最後尾者は三分五九秒ないし五分七秒を要し、四階からは最後尾者で六分七秒ないし六分九秒を要するのでこれから最後尾者が非常階段を降り始めてから地上に達するまでの所要時間(一階毎に二二秒要する)を差し引くと、最も時間のかかる四階の最後尾者が非常階段に達するまでにほぼ五ないし六分を要することになること、これに加えて、火災通報(火事触れ)の所要時間は、個々の客室毎に通報すると四階までで一分少々を要すること、以上の事実が認められる。しかし、これらの実験は、できるだけ同ホテルの火災当時の状況に近い設定で行われているが、それでも、前記のとおり四階の最後尾客が非常階段出口に達する時間は、避難可能時間ぎりぎりであり、宿泊客の大多数が老人で、壮年者に比して行動の敏捷性に欠け、避難行動に移る決断が遅れ、またその気力が少ないこと、火災の現実に直面して、恐怖あるいは狼狽のため誘導に手のかかる宿泊客もありうることなどを考慮すると、訓練を受けた避難誘導者がいたとしても、前記認定の避難可能時間内に全員避難を完了できたかどうかは疑問といわざるを得ない。かかる意味からは、消防計画・避難誘導訓練の実施のみでは結果の回避が十分にできたであろうとは直ちにはいえない。しかし、本件では、もう一つの結果回避措置である防火戸・防火区画の設置がなされていれば、後記認定のとおり三〇分間程度、旧館への煙及び火炎の流入を防ぐことはできたのであり、かつ、前記実験結果からするならば、仮に多少の混乱があつたとしても、訓練を受けた従業員の誘導によつて三〇分間内に宿泊客及び従業員全員を安全な場所に避難させることができたことは明らかである。

そもそも、旅館・ホテルの経営に当る者は、火災発生による不慮の災害から宿泊客らの身体・生命の危険を回避するためには、宿泊客らを危険な場所から安全な場所へ避難させることが最も確実な方法であり、その手段として防火戸・防火区画の設置により火炎・煙の流入を一時食い止め、その間に平素訓練を受けた従業員等による適切な避難誘導が行われることが要求されるのであるから、原判決が二個の結果回避義務が「相俟つて」結果発生を回避すべきものとしたのは正当であり、防火戸・防火区画の設置と消防計画・避難誘導訓練の実施とを別々に分離して結果回避の可能性を考察する所論は、前提を異にした議論であつて採るを得ない。

(2) 防火戸・防火区画の未設置と結果発生との因果関係

所論は、防火戸の効用について、①防火戸の閉鎖に一分程度の時間を要するところ、フラッシュオーバー後二分間で旧館三、四階廊下は煙が蔓延し、避難が不可能になることから、防火戸の閉鎖時間一分の間に流入した煙により死傷の結果が生じることが十分考えられ、②更に、防火戸が三〇分間は防煙防火効果があるということは、、逆に三〇分後はそれが発揮しえないことになるうえ、その間でも、新館や風呂場からの延焼及び煙の流入は、旧館二階接合部のみではなく、旧館の他の開口部(窓等)からも可能であることを合わせ考えると、防火戸によつて三〇分間は旧館に煙が流入しないとの原判決の認定には誤りがある、というのである。

しかしながら、原審及び当審証人神忠久、同斎藤文春の各供述並びに斎藤文春作成の鑑定書によれば、新・旧館接合部に法令によつて設置が義務づけられている煙感知器連動式甲種防火戸が設置されていれば、風呂場屋根裏(小屋裏)のフラッシュオーバーや、同屋根裏から新館二階廊下への燃え抜けによる大量の煙等が、同廊下に流入する以前の、右屋根裏から漏れてくる煙を感知して防火戸の閉鎖が作動していると認められる(当審証人斎藤文春の供述によれば、煙感知器連動式甲種防火戸はフラッシュオーバーないし区画の崩壊以前に先行する薄い青白い煙程度で十分煙感知器が作動し、これと連動して自動的に防火戸が一〇ないし一五秒で閉じるとしている。)から、所論指摘のとおり、風呂場屋根裏内のフラッシュオーバーあるいは同所からの燃え抜け後、約一分間で二階新、旧館接合部に煙等が充満し、更に約二分間で旧館三、四階まで煙等が充満するとしても、煙感知器連動式甲種防火戸が同接合部に設置されていれば、フラッシュオーバーあるいは燃え抜け以前に防火戸で閉鎖され、煙等が旧館二階ないし四階に流入することを遮断する機能を十分有していることが認められる。もつとも、同証拠によれば、防火戸が完全に煙を遮断することはできず、扉と、扉枠との間の間隙から煙が漏れることや、防火戸取付け部分の壁、天井の崩壊等を考慮しても、三〇分ないし一時間程度は、旧館の建物内の滞在者の安全が保たれることが認められる。しかも、旧館は外壁、床面とも軽量気泡コンクリート製ALC板を使用した鉄骨造りとなつていて、開口部は前記一、二階の新館との接合部及び外部に面した窓があるのみであるから、接合部に防火戸を設けたうえ、更に内部階段部分に防火区画を設けて遮蔽すれば、窓等から火炎あるいは煙等が入るとしても、旧館内に充満するまでには、かなりの時間を要すると認められ、原判決が、煙感知器連動式甲種防火戸を設置することにより三〇分間の防煙効果が見込まれ、その間に訓練を受けた従業員による宿泊客等の避難誘導がなされれば、これらの者に対する死傷は回避されるとしているのは、まことに正当である。

(3) 注意義務の構成と結果発生との因果関係

所論は、原判決が、消防計画・避難訓練実施義務と防火戸・防火区画設置義務とが「相俟つて」本件死傷の結果発生を回避することができたと認定している点を非難する。

しかし、過失の注意義務として、前記二つの結果回避義務を分離し別々の注意義務として、それぞれ結果回避可能性を論じなければならない必然性は全くない。むしろ、既に述べたとおり、旅館・ホテルにおける火災から宿泊客等の身体・生命に対する危険を回避するためには、火災を直ちに鎮火させるか、あるいは、宿泊客等を安全な場所に避難させることにあり、そして、本件においては、旧館内に防火戸・防火区画を設け、木造建築の風呂場・新館等の火災による火炎・煙等が旧館内に流入するのを一時的に防止し、その間に、平素訓練を受けている従業員によつて、宿泊客等を適切に安全な場所に誘導することによつて、はじめて宿泊客等の身体、生命に対する危険を回避することが可能であつたのである。もちろん、防火戸・防火区画の設置のみで、旧館への火災等の蔓延が防げるか、または、訓練を受けた従業員による避難誘導のみで宿泊客等が安全な場所に避難できる時間的余裕があれば、一方の注意義務のみで結果が回避できるから、その注意義務のみを問題にすればよいが、一方の注意義務のみでは結果の回避が完全といえない本件にあつては、両者を併せた注意義務が要求されることは当然である。してみると、原判決の過失における注意義務の構成及び被告人の注意義務違反(過失)と各被害者に対する結果の発生との間の因果関係の認定に関し、刑法二一一条の解釈適用の誤りは認められない。

(三)  宿泊客田中及び園部賢三の傷害との因果関係

原判決挙示の関係証拠によると、大浴場(男子風呂)、婦人風呂及び各脱衣室には、男性宿泊客三名、同女性四名がいたが、その内の田中は婦人風呂で、園部賢三は大浴場で入浴ないし着替中に火災の発生を知つたものの、従業員による適切な避難誘導がないまま自己の判断で避難しようとし、右田中は婦人風呂から出て三〇一号室の自室に戻ろうとしたが、その途中新館二階廊下で煙に巻かれて失神し火傷を負い、右園部は、大浴場の窓から崖下に飛び降りる際に負傷した、との事実が認められる。

所論は、田中及び園部賢三は、従業員の適切な避難誘導がなかつたのではなく、右田中については、従業員らからホールへ避難するように指示されたのにもかかわらず、あえて風呂場脇の階段から二階へ上つたことによるもので、また、右園部については、風呂場にいた男性客に対して従業員らによる火事触れや十分な避難の指示がなされていることが認められ、右田中の「二階へ通ずる階段の途中で男の人から、ここへ(二階へ)上つて出てくれということでした」との供述及び右園部の「三人ばかりいた人がこつちは行けないから、風呂場の窓から飛び出したほうがいい」と指示されたとの供述は他の証言と矛盾するのみか、客観的情況に照らしても不自然であり、信用できず、両名は、いずれも従業員の適切な避難の指示を受けていたのに、これを無視して、あえて危険を冒したため負傷したのであつて、原判示の注意義務違反との間に因果関係は認められない、というのである。

しかしながら、証人田中に対する原審裁判所の尋問調書によれば、同女は、婦人風呂内で「避難しろ」という男性の声で火災を知り、風呂場を出て二階に通ずる階段の所まで行つたところ、同階段の途中で消火にあたつていた男性から、この階段(二階の階段)を上つて逃げてくれと言われたので、その階段を上つて二階新館の廊下を進んで行つたところ、熱さと煙で意識を失つたようになつたこと、原審証人関根ミチ子及び同大島トシの各供述並びに証人福田寿夫及び同泉田年夫に対する当裁判所の各尋問調書によると、右田中は、二階廊下の中央階段下あたりで踞まり、あるいは這うようにしているところを救護されたこと、が認められる。右田中が風呂場脇の階段を二階に上つていくように指示されたことについては、証人田中きわに対する原審裁判所の尋問調書によれば、同じく火災の発生を知つて、田中のすぐ後から風呂場を出た田中きわも、風呂場脇の二階に通じる階段の所で消火に当つていた男性から二階に上れと言われたと述べていて、証人田中の供述と符合し、信用性の高いものである。なるほど、川治プリンスホテルに調理師として勤務する原審証人小坂文雄の供述によると、同人は、婦人風呂で入浴中の女性数名に、火災の発生を知らせるとともに、ロビーの方に逃げるよう指示したことが認められるが、しかしながら、宿泊客で、しかも同ホテルに到着して間のない田中は、同ホテルの案内に暗いうえ、前記認定のように、風呂から出てすぐの階段のところでは、今度は二階を通つて逃げるよう指示されているのであるから、小坂の指示があつたことでよしとすることは、あまりにも非常識であり、いわんや、田中が従業員の指示を無視してあえて危険な二階へ上つたとする所論は、到底採るを得ない。

次に、右園部に関しては、証人園部賢三に対する原審裁判所の尋問調書によれば、同人は、男風呂に入浴中、同所廊下あたりで「火事だ」という声を聞き、廊下に出たところ、そこで消火に当つていた男性らから「こちらは行けないから、風呂場の窓から飛び出した方がいい」と言われ、すぐに脱衣所に引き返し、衣服を手に持つたまま風呂場の窓を開けて、そこから地上に飛び降りたことが認められ、右園部があえて危険な窓からの飛び降りを敢行したということは、火災に巻き込まれる危険を感じ、同人の述べるとおり窓から飛び降りるようにとの指示に従つたためと見るのが自然である。

更に、前掲証人の供述並びに証人堀内まき、同小林忠子、同小林武及び同嶋紀太郎に対する原審裁判所の各尋問調書によると、①婦人風呂脱衣室にいた堀内まきは火災を知つて、直ちに着物を着て新館二階に通ずる階段を上り連絡通路を経て、旧館中央階段を上り三階に戻り、同宿の者らに火事を知らせている。②婦人風呂にいた小林忠子は、火災を知ると直ちに脱衣籠を持つて半裸のまま新館一階廊下を東に向いロビーに避難した。③前記田中きわは、裸のまま脱衣籠を抱え、一旦新館二階に通じる階段を上つたが、火の粉が降つてきたので引返し、新館一階廊下を東に向い、旧館大広間に避難した。④大浴場にいた小林武は、天井の火を見て直ちに裸のまま新一階廊下をロビーまで行き、同所の階段を上つて二階連絡通路を通つて旧館中央階段を駆上り、四階自室に戻つた。⑤大浴場にいた嶋紀太郎は、火災を知つて風呂場を出たが、新館二階に上る階段付近に炎が見えたので、新館一階廊下を東の方に進み、玄関に避難した。以上の各事実が認められる。これによると、右園部及び田中以外の風呂場にいた五名は、それぞれ勝手に自分の判断で行動し、その間従業員による適切な誘導を受けていないが、幸いにして、早期に避難行動に移つたため、あるいは、新館一階廊下を通つて東方に避難したため、無事であつたのである。このような情況の下で、右田中及び園部も、避難を開始した時期は、フラッシュオーバーが発生した直前あるいは直後くらいであつたと認められるのであるから、その時期に適切な避難誘導があれば、風呂場から新館一階廊下を通つて、フロント及び玄関へ安全に避難ができたと認められるのである。しかるに、両名とも従業員による適切な避難誘導がなく、かえつて、その場で消火活動に従事していた者の誤つた指示により、右田中については、危険な二階廊下へ行つてしまい、右園部については、風呂場の窓から飛び降りる危険を冒さざるを得なかつたのであるから、被告人の当該注意義務違反と右田中、園部の各受傷との間に因果関係が認められることは明らかである。

三本件各結果回避措置の有効性及びその予見可能性について(論旨(三))

所論は、①消防計画・避難誘導訓練の未実施に関し、結果発生の予見可能性を肯定するためには、消防計画・避難誘導訓練の実施が結果の回避に有効であること、これを実施しておかないと、従業員らが宿泊客らを適切に避難誘導することができず、その結果、宿泊客らに死傷の結果が発生することが予見可能でなければならないのに、原判決が旅館・ホテル等における火災の危険性の存在及び火災一般の危険性を判示するのみで、予見の対象とされるべき右消防計画・避難誘導訓練の有効性及びその未実施による従業員らの不適切な行動とその結果との因果関係について、何ら判示することなく予見可能性を肯定し、②防火戸・防火区画の未設置に関し、結果発生の予見可能性を肯定するには、新館と旧館との連絡通路部分に防火戸を設置し、旧館内の中央及び西側の各階段部分を防火区画にしておくことが結果回避に有効であること、これらを設置しておかないと、急速に火炎が右連絡通路部分から旧館内に流入し、更に、旧館二階ないし四階の各階段に流動、蔓延し、その結果、宿泊客らに死傷の結果が発生することが予見可能でなければならないのに、原判決が煙の危険性に関する通常人の認識について判示するにとどまり、予見の対象とされるべき防火戸・防火区画の有効性及びその未設置による火炎の流動、蔓延とその結果との因果関係について、何ら判示することなく予見可能性を肯定したのは、いずれも事実を誤認し、刑法二一一条前段の予見可能性の判断に関し法令の解釈適用を誤つたものである、というのである。

そこで、検討するに、

所論の①については、施設を設け、多数の客を宿泊させる旅館・ホテルにおいては、火災の発生の危険は常に存在するものであつて、一旦火災が起これば覚知の遅れ、初期消火の失敗等から本格的火災に発展し、逃げ遅れた客に危険が及ぶ恐れがあるが、このような危険を回避するための方策として、火災警報装置が作動した場合における火災発生の有無、出火場所及び出火状況等の早期確認並びに宿泊客等に対する早期通報、適切な避難誘導の実施が有効かつ必要不可欠であること、そのためには平素からその手順、役割分担等を定め、実地に訓練をして従業員に周知徹底しておかなければ、従業員らが突発した事態に適切に対処できず、その結果、宿泊客らが逃げ遅れるなどして死傷する危険があることは、特別専門的な知識を要する事柄ではなく、旅館・ホテルを経営する者にとつて予見可能であることは既に詳述したとおりである。ところで、所論指摘の東京弁護士会長作成の「照会回答書交付及び照会請求書の同一証明」と題する書面(写)によると、昭和五五年一一月二二日消防予第二五〇号をもつて、消防庁長官から発せられた「旅館、ホテル等の一斉点検の実施について」と題する通達に基づき、藤原町消防署が実施した一斉点検の結果、鬼怒川、川治地区の全旅館・ホテル六四軒のうち、消防計画を作成しているのはほぼ半数の三〇軒、未作成は三四軒であるが、消火、通報及び避難訓練の実施状況については、実施しているのが四九軒、実施していないのはわずか一五軒であり、旅館・ホテル火災の報道や消防関係者の広報活動により、旅館・ホテルにおける避難誘導訓練の有効性、必要性が広く認識されていることを物語つている。

次に所論②については、本件のような旅館・ホテルの火災においては、内部に在る者の身体・生命に危険を及ぼす原因としては火炎ないし火熱もさることながら、煙が重要であつて、急速に通路部分(階段を含む。)に流入、充満する煙によつて避難の路を断たれ、あるいはこれを吸入することにより呼吸困難に陥つて行動の自由を失い、遂に焼死するに至るという例が多いこと、火炎もまた空気の流通のよい通路部分を経て延焼し、火災が拡大するものであることは、多数の同種火災の事例を通じて本件当時広く知られていたこと、川治プリンスホテルの建物の構造、配置を見れば、新館及びこれに接続する風呂場は木造建築であるから、一旦火災となれば火の廻りが早く、煙や火炎が速やかに連絡通路部分を経て旧館内に流入し、旧館に延焼する危険が大きいことは、通常人において容易に予見可能であつたということができる。そして、右の危険を回避する方策として、同ホテルにおいては、旧館と新館とは一、二階の各連絡通路で接続しているだけであつて、風呂場及び新館に火災が発生した場合、旧館は、他に新館側から直接多量の煙、火炎等が流入する箇所はないのであるから、右連絡通路に煙感知器連動式甲種防火戸を設置し、かつ、煙・火炎の流通を容易にする旧館内中央部及び西側階段に防火区画を設置することが、新館の火災に対して、その煙・火炎の流入・延焼を防止し、宿泊客等の避難を可能にすることに有効、かつ、必要不可欠であつたこと、若しこのような防火戸・防火区画が設置されていなければ、新館からの右連絡通路を通じての旧館への煙・火炎の急速な流入、延焼により、旧館内の宿泊客らの身体・生命に直ちに危険が及ぶことは、通常人が十分予見することのできることである。しかも、被告人は、同ホテルの新築や増改築の際、建築、火災関係の専門家であるトラベランド興業の中村純一、通信防災の丸山清次、建築士の日野正一から防火戸・防火区画等の設置をしないと建築基準法に違反することを知らされており、また、藤原町消防署の立入検査に立ち合つた原口店長からも、同署員から防火戸・防火区画を設置しなければならないとの指摘があつたとの報告を受け、その後も、同消防署からの書面による指摘を受けていることを知つていたなどの事実に照らせば、所論の指摘するような、火災における煙や火炎の量、流入速度等や防火戸・防火区画の防火原理等を逐一具体的に理解していなくとも、防火戸・防火区画が煙や火炎を防ぎ、宿泊客等の安全を確保するうえで有効であり、かつ、必要不可欠であることの認識を得ていたものと認められるから、被告人の予見可能性としては十分である。

四消火栓の不備と結果発生との因果関係について(論旨(四))

所論は、川治プリンスホテルに設置されている屋内消火栓が完備されていれば、地元消防団所属の香取久四郎及び防火管理者の資格を有する日根野茂らの指揮によつて消防活動を行い、本件火災を鎮火するか、少なくともフラッシュオーバーを大幅に遅らせることができたのであるから、消火栓の不備が本件の結果発生の原因であり、唯一の因果関係を有するものであるのに、原判決が証拠の評価を誤り、右屋内消火栓が使用できても消火不能であつたとの結論を下したのは、明らかな事実誤認である、というのである。

そこで検討するに、〈証拠〉によると、川治プリンスホテルは、水道業荒引正一に請負わせて、旧館内に屋内消火栓を設置し、更にその後、通信防災サービス株式会社に発注して、新館内等に屋内消火栓を新設するとともに、旧屋内消火栓の配管の取換え、防火用水漕、給水ポンプの新設等の工事を施行したが、本件火災当時は、最終テスト及び消防署の完工検査が未了のまま放置されていたこと、本件火災に際して、風呂場男子脱衣所脇、旧館一階大広間及びロビー階段脇の各消火栓を使用しようとしたが、全く水が出ず、脱衣所脇の消火栓格納ボックス内にはホースすら備え付けられていなかつたこと、本件火災後、放水できなかつた原因を究明したところ、給水ポンプと電源との結線の間違いによるものであることが判明したことが認められる。ところで、当審証人須川修身の供述によれば、本件風呂場屋根裏火災の消火として、同ホテルの屋内消火栓が使用でき、かつ、水が燃焼部分に有効に放出されれば、鎮火、あるいは燃焼拡大を遅らせるのにかなり効果があることが窺われる。しかし、一方では、同証人並びに原審及び当審証人神忠久及び同斎藤文春の各供述によると、本件のような屋根裏の野地板の燃焼を主とした小屋裏火災にあつては、有効に消火するために直接燃焼部に放水するには、天井板等の遮蔽物を壊すなどして取り除き、燃焼部を確認して、その部分に向けて放水することになるが、遮蔽物を取り除くのに経験がないと時間がかかるうえ、小屋裏になつているこの部分の天井板等を取り除くと、そこから空気が流入する結果、燃焼を促進するという逆効果を招く恐れがある。従つて、屋内消火栓の使用についてほとんど経験のない従業員等が(香取久四郎や日根野茂についても、所論のいう程度の経験では同様)右消火栓を使用したとしても、本件風呂場屋根裏(小屋裏)火災では、その鎮火は勿論、フラッシュオーバーや他への延焼をひき延ばす効果は期待できないというほかはない。してみると、同ホテル屋内消火栓の不備がいずれの責任であるかはともかくとして、これらの消火栓が完備していたとしても、本件被害者らの死傷の結果発生が回避されたとは認められない。いわんや、屋内消火栓の使用の可否にかかわらず、本件では、結果発生を回避するに有効、かつ、実施可能な措置が他に認められており、被告人においてこれらの措置を尽くせば、本件死傷の結果発生は回避されたのであるから、消火栓の不備が本件の結果発生の唯一の原因とする所論は採るを得ない。

五過失(注意義務の懈怠)について(論旨(五))

所論は、昭和五四年一二月の消防署の査察後、被告人は、原口から右査察での指摘事項について報告を受けた時点で、防火戸・防火区画の設置方を同人に指示したのであるから、一応その義務を尽くしており、この点に関する義務の懈怠はない、しかるに、原判決は「被告人雅代は当公判廷において、前記のとおり、昭和五四年一二月一〇日ころの藤原町消防署による立入検査時の指摘事項につき同被告人は原口及び出入りの大工香取久四郎と共に同ホテル内を見て回り、その際原口及び香取に防火戸及び防火区画の設置につき専門の業者に見積もらせるよう指示した旨供述するけれども、証人原口、同香取の証言、同人の検察官に対する各供述調書によれば、同被告人は右防火戸及び防火区画の設置方を考えてみる程度の発言をしたにすぎなかつたものと認められ、右供述は信用できない。」と判示しているが、被告人は原審公判廷における供述で、原口将臣から報告を受けた際、香取久四郎が一緒であつたとは一言も述べていないのであつて、原判決の要約は誤りであり、また、原判決が「被告人は防火戸及び防火区画の設置方を考えてみる程度の発言をしたにすぎなかつた」との事実の認定の根拠としている原審証人原口将臣の供述は、被告人の原審公判廷における供述と比較して、その具体性や合理性からして信用できず、被告人の供述こそ信用性を認めるべきであり、同じく原審証人香取久四郎の供述は検察官の明らかな誘導ないし押し付けによるものであつて、証明力は高くなく、刑事訴訟法三二一条一項二号書面として採用された同人の検察官に対する供述調書は、同条項の所定の特信性の要件を欠くので、証拠能力を否定されるべきである、従つて、原判決にはこれらの点において事実誤認及び証拠の採否に関する訴訟手続の法令違反がある、というのである。

しかしながら、既に述べたとおり、当該防火戸・防火区画が設置されていなかつたことは証拠上明らかであり、仮に、被告人が店長原口将臣に右防火戸・防火区画の設置について見積りを取り、工事をするよう指示したからといつて、それだけで防火戸・防火区画設置義務を尽くしたといえないことは説明するまでもないことであり、この点で既に所論は失当であるといわなければならないが、なお所論の点については、犯情の上で重要と認められるので検討する。

被告人の原審公判廷における供述によれば、防火戸の設置について、店長の原口将臣に「見積りを取つて、やるように」と言つたと述べているが、原審証人原口将臣の供述によれば、被告人は防火戸の設置については「お金がかかるからそのうちにやりましよう。」と言つたと述べている。また、香取久四郎の検察官に対する供述調書によると、「考えてみる」という程度の応じ方であり、言葉もそれらしいことを漏らした程度であつたと述べているのである。原審証人香取久四郎の供述は、この点について「見て歩いただけじやなかつたかと思います」と述べているにとどまつており、被告人が積極的に設置を指示したとも、または、すぐには施工しないと言つたとも述べていない。ところで、被告人の原審供述は、同五五年一月ころ、原口将臣から「今日、消防署の査察があつた」との報告を受けたと述べているが、消防署の査察は同五四年一二月一〇日であり、そのことは他の従業員も当然知つていることであるから、あえて、「今日査察があつた」と虚偽の報告をするということは不自然である。また、業務命令のような形で、防火戸の見積りを取つて工事を施行するようにと、指示したとするならば、その後指示が実行されていないことについて、原口将臣に理由を質すなどするはずであるが、被告人がそのようなことをした形跡はない。かえつて、当時新館二階の特別室の工事等で出費が嵩み、防火設備資金として特別融資を受けた一五〇〇万円ですら、融資条件に違反して他の用途に支出している事実に照らすと、証人原口将臣が述べているとおり「そのうちやりましよう」と、少しでも費用の掛かる予定外の工事は先送りにしようという趣旨の返事をしたとするのは十分に首肯できるところである(所論のいうとおり、防火戸の設置自体の費用はそれほど高額でないとしても、防火区画も同時に設置しなければならないとすれば、その費用や、一部屋潰す程度のスペースを要することを考えれば、当時の被告人としては、その設置に消極となることに十分な理由がある。)。従つて、原審証人原口将臣の供述は、その立場が被告人と対立する状況にあることを考慮しても、十分合理性をもち信用できる。更に、原審証人香取久四郎は、川治プリンスホテルに古くから出入りし、その建物の新築、増改築工事の大半を請負つてきた、いわばお抱え大工であつて特殊な立場にあり、このような同証人と被告人との関係を考えると、若し、被告人が防火戸の設置を原口将臣に指示したことが事実だとすれば、被告人に有利な事実であるから、当然同証人はその旨供述するはずであるのに、消極的な供述に終始していることは、被告人の供述を否定するものと評価せざるをえない。更に、同証人は、被告人の在延する公判廷で、被告人に不利な供述は避けようとする心理が働くことは当然であり、実際にも前記のとおり、同人の原審公判廷における供述は、重要な点で供述を避けたり、曖昧な供述をしており、これに反し、同人の検察官に対する供述調書では、そのような心理が比較的稀薄で、自由に供述していることが認められる。してみると、原審が、香取久四郎の検察官に対する供述調書を特信性があるとして、刑事訴訟法三二一条一項二号により証拠として採用した手続に、何らの違法も認められない。

六結語

以上のとおりであつて、原判決挙示の証拠によれば、原判決の判示する罪となるべき事実を優に認めることができ、各論旨について、所論の指摘するところを仔細に検討したが、原判決に所論のいう事実誤認(訴訟手続の法令違反を含む。)、法令適用の誤りは認められない。論旨はいずれも理由がない。

第二量刑不当の主張について

その論旨は、要するに、仮に被告人の刑責が否定しがたいとしても、被告人を禁錮二年六月の実刑に処した原判決の量刑は、本件火災の出火責任を問われた星隆一及び管理責任を問われた代表取締役社長太平との刑の均衡を失し、かつ、他の火災事件における刑と比較して不当に重いうえ、被告人の情状に関する認識及び評価が十分なされているとはいえないので、原判決を破棄し、被告人に対し刑の執行を猶予する判決を求める、というのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも併せ検討し、以下のとおり判断する。

本件の量刑事情については、原判決が委曲を尽くして認定判示しているとおりであるが、特に、本件において量刑上考慮されなければならないことは、第一に、本件火災による犠牲者の数が死者四五名、負傷者二二名の多数にのぼり、旅館火災事故として史上稀に見る大惨事であることである。旅館・ホテル火災は往々にして多数の死傷者を出す凄惨なものであるが、本邦において発生した旅館・ホテル火災事件の死傷者の数と比較しても如何に本件の犠牲者が多いかがわかる。第二に、被告人の過失が重大かつ悪質であることである。被告人は、太平とともに川治プリンスホテルを経営、管理していたもので、防火防災上の対象建物の管理権原者でもあるが、既に述べたとおり、実質的にも、被告人は、常時同ホテルにあつて、直接店長以下の従業員を指揮監督して営業業務を遂行し、建物の維持、管理や防火防災の管理業務を行つていたものである。しかして、被告人は、既に詳細に説示したように、自ら計画した同ホテルの増改築や新館の新築に際して、同ホテルの建物が防火防災上建築基準法に適合しないか、あるいは同法に違反していて危険なものであることを知りながら、あえて工事を進めて行つたうえ、この間に、県土木建築課や藤原町消防署による検査等で、しばしば同法及び消防法上の不備不適合及びその改善が指摘されていたのであるから、自ら、あるいは店長等幹部従業員を防火管理者に選任し、その者をして消防計画を作成させ、これに基づき従業員の消火・通報・避難訓練等を実施するなどすべきであつたのに、一度もこれを実施せず、また、建物についても、既に述べたとおり、旧館と新館との連絡通路の旧館開口部に防火戸を設置し、更に、旧館内中央部及び西側階段部分に防火区画を設けることが急務であるのにこれを放置し、一方では、多額の費用を投じて新館二階に特別室を作るなど同ホテルの高級化に腐心し、営業利益に結び付かない防火防災設備等に対する出費を抑え、果たすべき義務に基づく措置をあえて放置してきた責任は重く、遂に本件の悲惨な結果を招いたのであるが、この懈怠は、被告人の防火対策の軽視、怠慢、更に遡れば、経営者の社会的責任に対する自覚の欠如の結果というほかはない。このことは、例えば、折角火災警報装置を完備し、本件火災時に警報が正常に作動したのに、従業員の無知、怠慢から、機械の故障であると即断し、「ただ今のベルは試験中である」との誤つた情報を館内に流し、火災の覚知を誤らせたこと、屋内消火栓を多額の費用を投じて設置しておきながら、業者をしてその竣工検査を早急に行わせなかつたため、本件火災時に放水できず、消火に手間取り、事態の混乱を招いたこと、玄関・ホール間に火災報知器と連動した甲種防火戸を設置しながら、肝心の旧館連絡通路口にこの種の防火戸を設けていなかつたこと、防火設備資金の融資を受けながら、これを他に流用していることなどにも、被告人の防火対策に対する消極的かつ受身の姿勢が如実に物語られているのである。かかる意味から、本件は、まさに旅館・ホテル経営者としての経営倫理が問われた事案でもあるといえるのである。その第三は、本件の結果が社会に与えた影響の重大さである。本件は、白昼にもかかわらず多数の犠牲者を出し、しかも、その犠牲者の多くが高齢者であつたことが、旅館・ホテル火災の恐ろしさを改めて認識させ、人々の耳目を強く聳動させたものである。旅館・ホテルの火災は、一般に往々にして宿泊客等多数の犠牲者を出し、その主たる原因が、防火設備の不備、火災に対する避難誘導の不手際によるところが多く、日頃の備え次第では、十分避け得る人災であり、そのため防火設備の完備や防火訓練の実施が強く求められるところであるが、本件もその例外ではなく、まさに被告人の過失に基づく人災の最たるものというほかはない。この点において、本件における被告人の社会的責任は重かつ大であるといわなければならない。

一方、被告人のために考慮すべき情状として、被告人及び太平の誠意ある努力により被害者全員との間において、原判決判示のとおり示談が成立し、総額八億円余が支払われていること、当審において、被害者多数を出した高南長寿会及び成一長寿会並びに遺族会から、被告人が誠意をもつて被害の補償をしたことや、毎年死者に対する供養をしていること、負傷者の傷もほぼ治癒したなどの事情や、被告人の反省の態度をよしとして、被告人に対し寛大な処分を希望する旨の上申書が提出され、死亡した従業員の各遺族からも同趣旨の上申書が提出され、被害感情の宥和が認められること、被告人が自己の不明を詫び、反省悔悟の日々を送つていることなど、被告人に有利な情状も認められる。

所論は、星隆一及び太平との刑の不均衡をいうが、なるほど星は、本件火災の第一次責任者であり、同人が火を失しなければ、本件の結果は起こり得なかつたといえるが、しかしながら、旅館・ホテルを設営して、宿泊業を営むものは、如何なる火災に対しても宿泊客の生命・身体を護るべく完璧な防火防災管理が期待されているのであり、その責任は他の者に増して大であるといわなければならない、その意味では、太平も同様であるが、更に、被告人は、同ホテルに常住して、直接従業員を指揮監督し、同ホテルの経営、管理を掌理していたもので、特に、新館建築にあつては、しばしば太平を差し置いて工事を施行させるなどの同ホテルにおける業務の実態からすると、本件建物に関する防火防災の管理に対する責任は、被告人が最も重いというべきであるから、太平との比較においても量刑上差が生ずることは、けだしやむを得ないというべきである。更に、所論は、他の同種事件と比較しても、被告人に対し執行猶予が付されるのが相当であるというのであるが、過失やその結果等についての個別的事情を異にするうえ、本件は、所論の指摘する旅館・ホテル火災事件の経験を踏まえて、この種火災の危険性が警告されているにもかかわらず、その重大性の認識を欠いた点でも、被告人に対する非難の程度は大きい。所論はまた、店長原口将臣、通信防災の丸山清次、設計士の日野正一、更には、消防行政そのものの責任の追及を看過して、すべてを被告人の責任とした原判決は不当である、というのである。たしかに、原口将臣については、原判決が指摘しているとおり、その地位からいえば、同ホテルの防火防災設備の整備、避難訓練等の実施について、経営者である被告人に強く進言し、これらを実現させるべく努力すべきであり、それを怠つた点では、原口将臣にも一端の責任があり、支配人に人を得なかつたといえるが、経営者としての被告人の管理責任が問われる本件では、さほど被告人に有利な情状とならない。右日野は、ある意味では同ホテルの違法建築に手を貸した誹りを免がれず、また、右丸山も屋内消火栓の工事について万全を期したとはいい難い点があるが、しかしながら、そのため同ホテルの建物の管理権原者としての被告人の管理責任がそれほど軽減されるというものではない。消防行政についても、これを受ける側の被告人や太平の姿勢にこそ問題があるのであつて、県及び藤原町消防署の改善勧告に関心を示さない一方で、消火設備資金の融資には逸早く支配人等に命じて手続をとるなどといつた態度では、消防行政を如何に強力に進めても限界があるといわざるをえない。

以上のとおりであつて、本件に至る経緯、過失の態様、結果及びその社会的影響、被害者やその遺族の感情、本件後の被告人の態度、被害の補償等のほか、被告人の身上、生活、環境等について被告人に有利、不利な情状一切を総合し、更には本件の原審相被告人との刑の軽重、同種事件との均衡等をも併せて審按すると、右のとおり被告人に有利な情状が認められるものの、これらを十分斟酌しても、本件における被告人の刑事責任の重大性に鑑みれば、被告人に対し刑の執行を猶予すべき事案ではなく、また、刑期の点においても原判決の量刑は相当であつて、これが重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文によりその全部を被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石丸俊彦 裁判官新矢悦二 裁判官日比幹夫)

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